Some of the plants I met on my trip to Hachijo-jima
アシタバ (Ashitaba)
学名:Angelica keiskei
セリ科 Apiaceae シシウド属 Angelica
かつては栽培されていたのかもしれないものが半ば野生化している。食材は今ではスーパー・農協等で買える。
実生2年目ぐらい、江戸時代の八丈の言葉で言えば「小花アシタ」であろうか、さすがに東京より早い芽生えで今から旬の時期をむかえる。
その昔の呼び名はアシタクサ(アシタグサ)で、実生1年目を「マキハナ」、2年目を「小花アシタ」、3年目を「引ハナ」・「3年アシタ」と呼び、3年目には花が咲き実がなって枯れるので、枯れる前に引きぬいて根を食していた。(#1, #2)
1〜2年目の方が味は良いがまだ細かったためらしい。穀物の少なかった当時の八丈島で、葉・茎・根、余すところなく全てを食糧とする最大限の工夫だったのだろう。
夕には根を蒸して搗いたものを食べ、
朝(あした)には、潮水などで塩味をつけた麦などの雑炊に入れて食した。アシタバの本当の語源である。(#1)
漢名である「鹹草」に「明日葉」の和名を付けたのは、牧野富太郎のようだ。(#5)
「今日ソノ葉ヲ切リ採ルモ其株強壮ニシテ明日直チ萌出スルノ意」と、敢えてアシタバの栄養価と丈夫さを
誇張・強調した漢字にしたのだろう。大正末期には八丈島の食糧事情は好転していたのかもしれない。
てなことを、なが〜い文章で書いたのだが、たぶん読む気にならないだろうから上に要約した(笑)
なが〜い文章、ここから -----
アシタバの謎
1.なぜアシタバと言うのか。
少なくとも明治時代後期まで (#1) は、原産地八丈島の島民はアシタ、アシタクサ、アシタグサ
などと呼んでいた。(かつては、濁点、半濁点を表記しない慣行であったので、アシタクサの
発音はアシタグサである可能性も大きい。)
朝 (あした) にアシタクサの葉を入れた雑炊を食したので、アシタクサの葉をアシタバと呼んだ。
古語では「あした」とは夕に対する「あさ(朝)」のことであり、今日の翌日である明日(あした)の
意味で使われるようになったのは平安末期だそう。
つまり、朝ごはんに食べる葉っぱと言う意味であって、夕に採っても朝にはまた芽生えると言う
意味ではなかった。
夕にはアシタクサの根を蒸かして搗(つ)いたものを食していたそうだが、根または根を調理した
ものを何と呼んでいたのかは不明。
ただ、根を食すのは実生3年目のアシタクサで、三年アシタなどとと呼んでいた(#2)。
また、アシタクサを何年生かで区別していたのだが (#1-八丈実記)、これはアシタクサの性質を
知って栽培管理する上で必要なことであったのだと思う。
2.なぜ漢名は鹹草(塩辛いとか苦いとかの意) なのか。
少なくともその時代 (#1) に、そのアシタにあてがわれていた漢字は鹹であった。呼び名が先、
漢字は後からやって来るものである。
本草綱目付録(ほんぞうこうもく、1596年 李時珍 本草学の基本書) に記載があるらしいが、
それは、伊豆海島風土記 (1781-1782年の伊豆諸島巡見の記録(報告書) 佐藤行信、吉川
義右衛門) に引用されている (#2)。
「時珍カ本草綱目鑑?子ノ附録曰
「扶桑東有女国産鹹草葉似邪
蒿而気香味鹹彼人喰之ト 倭本草ニ云アシタト訓ス」(改行位置は原文(#2)に従った)
私の漢文力は文字通りチンプンカンプンに近いが、勝手に意訳(違訳・ウソ訳)してみた。
本草綱目の附録に、
「日本(扶桑、中国における日本の異称)の東にある八丈島(女国、除福伝説 (#3)に基づく呼称と
思われる)に産するアシタクサの葉は、ヨモギに似た香気で島人は潮味で食す、
と紹介されている。大和(倭、やまと)本草 (#1) では、鹹と言う漢字にアシタと日本語読みを
つけている。」
一般には、「味鹹」の部分を、葉が塩辛いまたは苦みがある(塩辛い意味の他苦みも言うのか、
苦みを含む塩辛さを言うのか。#6)と
解釈されるようだが、アシタバには塩気など無いし生では食べない、多少のエグミはあるものの
調理すれば苦いと言うほど強くなく美味で食べやすい。
もしかすると、中国人と日本人の味覚の違いかもしれないが、苦い草は他にもある。
そこは、「島民は (潮水またはゑんばいというものを使ったらしい) 海塩で味をつけて食べる」、という
意味なんじゃないか、つまり、塩味をつけた麦雑炊に入れるアシタクサの葉のことを指して
「鹹草」と命名しているのではないか、と勝手に解釈。
つまり、鹹草の隠れた意味はやはり、「朝に食べる草」なのじゃないか。
(この段は、私のこじつけなので信じないように!)
日本 (本草綱目) で漢名「鹹草」に和名を付ける際に現産地八丈島での呼び名を付けたわけ
で、鹹と言う漢字にアシタと言う読みがあるわけではないはず、中国語辞典ではなく
本草学ですから。
ちなみに本草綱目の本編(附録じゃなく)には「都管草」というのがあって、これがアシタバらしい
のだが、植物そのものを指すのではなく、生薬名なんだと思う、干した葉を煎じて服用する等。
また、比較的良く知られた生薬に当帰があるが、これはアシタバと近縁 (シシウド属)の
トウキ(当帰、Angelica acutiloba)であって、アシタバが代用になるのかどうかは不明。
3.なぜアシタバと呼び、明日葉と書くようになったのか。
牧野日本植物図鑑 初版 1925年 (図番号809) 「あしたば」の項で、(#5)
「和名明日葉ニテ、今日ソノ葉ヲ切リ採ルモ其株強壮ニシテ明日直チ萌出スルノ意。漢名鹹草(慣用)」
とした。また、「嫩葉ヲ採リテ食用トス。(注:嫩は若いの意)」と書かれ、根には言及していない
ので、その頃は既に、根を食す習慣は無くなっていた、もしくは 根まで食べなければならない
ほどの食糧事情は脱していた、ということなのだろうか。だとしたら、自然にアシタクサの呼び名
が消えてより生活に密着した呼び名、本来は朝に食す葉を指す言葉だったアシタバに統一
されることは十分ありうるのではないか?
ちょん切った翌朝に芽生えるというのはあまりにも誇張のしすぎなのだが、確かに、早春に
株元から突然のように萌出する新葉の迫力には圧倒されたし、少なくとも旬の葉そのものは
名に背負うほど鹹くはないことを牧野氏はご存じだったのではないだろうか。
けっこうオチャメな方だったのでは無いかしらん。
#1:鹹・鹹草・アシタ・アシタクサ・アシタグサなど、言及のある古文書 (江戸後期〜明治年代順)
1596 「本草綱目」 - 中国本草学の基本書 李時珍
---------------------------------------------------
1709 「大和本草」 - 日本における本草学の基本書 貝原益軒
1729 「本草綱目啓蒙」 - 小野蘭山
1753 「伊豆七島調書」
「椎の實、のたみの實、薯蕷(しょよ・じょよ、ヤマノイモのこと)、野老、葛、あした草を
取、夫を食の足粮に仕候」
http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/tibu1/frame/f000648.html
1782 「伊豆海島風土記」 - 伊豆諸島巡見(1781〜1782)の記録(報告書)
佐藤行信・吉川義右衛門
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sumita/5A-4-2/5A-4-2.html P20
1796 「伊豆日記」 - 小寺応斎
1840 「八丈島大概帳」
1841 「朝日逆島記」 - 佐原 喜三郎(八丈流人 1836~1838島抜け再逮捕~1845減刑)
1848 「八多化の寝覚草」 - 鶴窓帰山(八丈流人 1839~1868赦免)
「平日の夫食はさつまいも また さつまの切干 夏は麦こがし そのほか鹹草
(あしたぐさ)のたぐひなり (以下略」
国立国会図書館デジタルコレクション - 八多化の寝覚草
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2537093 コマ番号9-10
1848-1860 「八丈実記」 近藤富蔵(八丈流人 1827〜1880赦免)
「鹹草ハ蒔年ヲマキハナト云 二年目ヲ小花と云ヒ 三年ニナルヲ引ハナト名付、
葉茎根ミナ食ス」(#4)
1878 明治11年 伊豆七島 東京府へ移管 (#4)
1901 「伊豆七島志」 - 秋山 富南(章) 原著の「南方海島志」(1791) を増補 萩原正夫
「鹹草ハ(中略) 夕ニ根ヲ食ヒ朝ニ葉ヲ食フ故あした葉ト呼ブ」
---------------------------------------------------
1925 「日本植物図鑑」 - 牧野富太郎 (#5)
#2:「伊豆海島風土記」 (#1 参照)
「島名 三年アシダ 鹹草ノ三年ニナルヲ云リ 此草三年ニシテ始メテ花開実ヲ結フ
「此ニ至テ筋立食シカタシ (中略) 味ハ甘苦香気アリ 実ヲ植 形小キモノヲ島人小花アシタト云フ」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sumita/5A-4-2/5A-4-2.html P20
#3-1:秦の始皇帝が除福を長生不老の霊薬 (アシタバのことであるとの説有り)探しに遣わした
ものの探し当てることができす紀伊半島に漂着、除福が連れてきた若い男女それぞれ
500人は男女別の船で漂流、男の船が漂着したのが青ヶ島で、男島とよばれ、女の船が
たどり着いたのが八丈島で、女護ヶ島と呼ばれた。
#3-2:八丈島に伝わる伝説ー男女が同じ島に住むと神の祟りがあるので八丈島 (女人島)と
青ヶ島(男人島)に分かれて住み、一年に一度、南風の吹く日に男たちが八丈島に渡って
夫婦の契りを結んだ。男子が産まれると青ヶ島へ、女子が産まれると八丈島に残した。
その悪しき習慣を撤廃させたのが源為朝で、以後男女一緒に暮らすようになった。
(宿泊ホテルにあった資料より)。#3-1 の除福伝説が元になっているらしい。
#4:「江戸時代の八丈島 : 孤島苦の究明」 東京都総務局文書課, 1950
(大学・自治体各図書館にて所蔵あり)
都史紀要12 江戸時代の八丈島
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0604t_kiyo12.htm
八丈実記の他、七島巡見誌、園翁交語、八丈島大概、海島風土記、八丈支庁より移管された
八丈島の流人在命帳、八丈島大概帳など、東京都公文書館が所蔵する資料を基にまとめた
江戸時代の八丈島の概説。
所蔵資料紹介:
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0302shiryou_syokai.htm
東京都公文書館 江戸明治期史料 ・情報検索システム
http://www.archives.metro.tokyo.jp/
#5:牧野日本植物図鑑 あしたば
http://www.makino.or.jp/zukan-archive/index2.php?no1=P270
http://www.makino.or.jp/zukan-archive/img2/809.jpg
(牧野日本植物図鑑インターネット版 | 牧野富太郎 | 高知県立牧野植物園
http://www.makino.or.jp/dr_makino03.html)
現在主に使われる学名 Angelica keiskei (Miq.) Koidz. (1930) の命名者は同時代の植物学者 小泉源一。
(小種名 keiskei は幕末〜明治期の植物学者・伊藤圭介への献名)
牧野氏が付けた学名は からかさばな科(Umbelliferae) Angelica utilis Makino.
(小種名 utilis は有用なと言う意味)
現在では、セリ科に再分類されているが、牧野氏の学名はシノニム (synonym) として有効のようだ。
#6:鹹は会意文字で、咸は塩辛いの意味、鹵は元は中国西方の塩の産地または
そこで産する塩土を指す言葉から転じて塩からいという意味になったそうだが、Baido百科で調べると、
基本的に苦い味のことのようだ。海水から食塩を生成する際に出る水、つまりにがりのことは、
鹽(塩)滷とか滷とか苦鹵とか言う。
2015-02-25
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